このペーパーレスの時代、印鑑は実のところ未だに使う場所はそこそこある
高価な買い物だったり重要な書類だったりは、印鑑を押さないといけないケースの筆頭だったりする
とはいえ昔に比べれば使用頻度は大きく減った。実際のところ私もなんかで使用する印鑑は基本的に中学校の卒業時にもらった記念品の印鑑を使っている
言ってしまえばその程度で済むのである
そんなある日(昨年末)、母がとある印鑑を渡してきた
…………
俺「ワニ革じゃないこれ?」
母「たぶんそうね」
母いわく、祖父の利用していた印鑑を受け継いだのがこれなのだという
俺「……ってことはこの印鑑って象牙?」
母「そう。象牙」
俺「象牙の印鑑って実在するんだ……」
母「去年(2023年)車買うときに渡しとけばよかったーってなったのよ。そういう高い買い物時はやっぱりいい印鑑を押したほうがいいから。思い出したから渡しとく」
結構経って思い出してるというのはさておき
そもそも論だが象牙とはなにか……は、文字通りである。象の牙である
乳白色で白く美しい外見を保てる上、硬いが加工しやすい特性から特に美術品に用いられがちだった。サイズももちろん象なので人が手にするサイズのものにはそこそこの大きさにできる
美術品は総じて高級なことと合わせると想像に難くないが、つまるところ利益の上げやすい象牙のために象が乱獲される……という自体が発生し現在はワシントン条約で取引が禁止されている
ただこの条約はあくまで国家間の取り組みのため、国の中で取引される分には別に規制が必要となる。国によってはもちろん取引が禁止されているが、日本では印鑑で利用されていた経緯から国内での取引自体は禁止されていなかったりするし、それが国際的に非難を浴びることもある(余談だが、ほかにもイギリスでは古いヴィンテージ品に利用されている象牙が制限されていないことが悪用されている例などあるらしい。まあそういうものなのである
ちなみに日本でもメルカリやヤフオク等では象牙が扱えなかったりはする。まあ危うきに近寄らずということなのだろう
上の写真を見てもらうとわかるが、ケースにピッタリの印鑑なのに少しだけ印章部分に隙間がある。これは母が掘り直してもらったためだという
もともとこれを作ったという祖父の話を少しだけしたい
祖父は大分の北部、中津という土地で町工場を営んでいるいわゆる経営者であった
酒好きだったことが祟ってか比較的早い六十歳すぎぐらいに逝去したが、社長らしい商工関係以外でもボーイスカウトや登山など多くの趣味の友人も多かった人物というのもあり葬式はめちゃくちゃ大きな会場でめちゃくちゃ人が来たのを覚えている
なんなら記憶にある初めての葬式だったこともあり、焼香の時間が長すぎて葬式が嫌いになりかけた(参列者が多いので時間が長い)
そしてなんというか、派手好きというわけではないが、いいものにはこだわるタイプの人間でもあった
私の記憶にある分でもホンダのビートに乗っていたのを覚えているし、昔はスカイラインに乗っていたらしい(いわゆるハコスカ……と思われる。詳しくは曖昧)
家にあった調度品もなんかすごいやつだったっぽい覚えがある。たぶん本当にすごいやつなんだが
そんな祖父の用意した印鑑である。そりゃあいいものを使っているだろう。あるいはいい象牙か
この印鑑は母が受け継いだものだったが、その詳しい経緯……というより理由はよくわかってない
というのも、祖父が直接渡したわけではなく、祖父の死後数年たったあたりで祖母が母に渡したのだという
母と実家の関係は別に悪くはないが、シンプルに母は「都会向き」な人間だったようで、実家というより田舎に水が合わない性格だったため、いざいろんなしがらみがなくなった途端上京している
さらにいうと町工場を継いだ伯父/叔父がいたため、田舎に帰るという選択肢自体を取る必要性が皆無であった
ただなぜかこの印鑑は、会社を継いだ伯父たちではなく母に渡された。ちなみに祖母が亡くなったタイミングで遺産相続の書類に印鑑を押すときにこの印鑑を使ったらしい
そのとき伯父たちは驚いていたそうなので、本当に知られていなかった遺産のようなものだったのかもしれない
祖母もすでに旅立っているため、なぜこの印鑑を母に渡したのかはわからないままである
母「掘り直してもらったはんこ屋にこれはいいものだから大事にしなさいって言われた」
とのことである。まあ象牙の印鑑は大事にしろよと言われてそれを否定する人はいないだろう
そんなわけで象牙の印鑑の掘り直しができるはんこ屋探しをして持っていった。はんこ屋探しは全日本印章業協会で探した
こういう公益社団法人とかを利用できるようになってくると大人になった気がしてくる。気のせいだろうか
近所のそれなりに評判が良さそうなはんこ屋を見つけそこに持っていく
はんこ屋の店主「いいものだね。ヒビも入ってないし掘り直しは全然問題ないよ」
俺「プロが見てもそうなんですか」
店主「ケースの背皮は条約で取引禁止されてるから今同じようなものを作ろうとしたら20万円ぐらいかかるんじゃないかな」
俺(そっちも条約対象だったかー)
店主「象牙もかなりいいもの使ってるね。あと100年は使えるいい象牙だから大事にしてね」
俺「わかりました」
店主「まあ100年後にこんないい象牙に彫れる人がどのくらいいるかわからないけどね(笑)」
俺「あー……それはつらい」
業界ジョークは反応に困る
とはいえ確かに、仮に次の世代にこの印鑑を継がせたとしても彫れる人はかなり減ってそうではある。どっちかというと私が継がせられるかもわからないが
店主「若い子でも頑張ってる子はいるけど、100年後だと世代が2つ3つ進むからね……あれ?これゲブタだね」
俺「ゲブタ?ってなんですか」
店主「象牙の蓋って書いて牙蓋。こっちの朱肉の蓋も象牙」
俺「…………」
俺「えぇ……」
店主「象牙は中心のほうを印鑑とかに使って、外側に近いものはこういう装飾で使ったりすることがあるんだよね……すごいね」
俺「祖父が作ったもので、いいものには惜しまない性格だったので……」
店主「ぜひ大事にしてください。この印鑑の象牙もかなり質がいいですから。象牙の中でも一割ぐらいの希少なものです」
俺「そんなに」
店主「いい象牙じゃないと掘らないって人もいるんですよ。私も昔そうだったけど。それでも文句ないぐらいです」
俺「はえー」
店主「……金属部分は鉄かな?蓋の軸も金じゃないね。もっと高級になるとこの牙蓋の軸とかに金を伸ばしたものを使うことがあってね。職人が手作業で作るんだけど、いま東京に3人ぐらいしかできる人がいないんだよね」
俺「まだそんな上があるんですか」
店主「でもそのレベルになると今はもう一からは作れないんじゃないかな。実物を見たことも何回かしかない」
文字通りのロストテクノロジーということらしい。印鑑にも上には上があるというのは言われてみればそうだが
そんなわけで掘ってもらったのがこちら
印影は流石にお見せできないが、サンプルで捺してもらった文字を見たときの感想は「線が細い」だった
かなり驚いたのだが、いわゆる実印に使われる印相体にしては線が細く妙に読みやすい。スペースもめちゃくちゃ小さいスペースが何箇所かに掘られている
おそらくそのあたりが腕の見せどころなのだと思われるがこんなにはっきりとわかりやすい実印があるのか……という感想を抱いた
適当なタイミングで印鑑登録してバリバリ使っていこうと思う
……まあしばらくはそんな高価な買い物をする予定や起業する予定があるわけでもないのだが
母いわく、持ってたらなんだかんだ捺す機会はあると言われたので覚悟しながら今年も邁進していくしか所存である。たぶん