たぶんこのサイトで取り上げる数少ない真面目本。いやまあ本はどれも真面目なのだが
いつもならWorkFlowyというアウトライナーに要素を箇条書きにしつつそこを肉付けする形でこういうポストを組み立てているのだが、読んでいる途中でいくつか思い浮かんだことと、この本に書いてあった「いま、どこまでできるかとりあえずやってみる」という点に感慨を受けたことと、大前提としてこの本はあと3周ぐらい(あるいはもっと)読まないと全部消化しきれそうになかったので何回も読むことを想定してひとまず今の時点で覚えていること・理解できていることを整理するために(ほぼ)アドリブで記事を書いてみることにする
とはいえちょっとばかしアウトライナーでまとめた分もあるためその点はその点としてこのポストにも利用させてもらう。が、やはりしっかりとまとめ直した要約ではないので私の書いた部分に大なり小なり間違いがあるかもしれない
マンガや映画などエンターテイメント系のコンテンツと比べると曖昧な文章になると思うが、まあこのサイトのコンテンツでそのあたりの充実を図ろうとしている人はたぶんほぼいないので好きにやらせてもらう
まずこのセンスの哲学という本は千葉雅也(敬称略)という哲学者・小説家の本である
私は哲学もといいわゆる文系学問は専門的には触れてこなかったが、ここ数年でその手の、まあ要するに文系学問の本を触れるようになっていた
千葉雅也という作者は触れる範囲の一人で、氏の著書では現代思想入門なども読んでいる(こちらもあと3周ぐらい読まないと全体の理解には及ばなそうである)。なんなら勉強の哲学はまだ手を付けられていない
この本を読もうと思ったきっかけは絵やマンガのアウトプットに悩んで、その中で何かしら助けになるのではないかと思ったのが確かスタートラインだっと思う
結論から言ってしまうとそうした要素も含まれており、またタイトルの通り技法と感覚の関係性が感じられたので読んで良かったと思っている
この本はタイトルにもある「センス」を強く触れている。本の説明欄にもセンスが良くなる本と書いてある
センスとはなにか、ということを明確にしている。もちろん単語の定義的な意味合いでのセンスという点に触れつつ、実際にどういった感覚なのかを説明する
筆者はこれをリズムと表している。リズムというのはもちろん音楽でも表現できるし、絵画でも表現できるし、なんなら食事でも表現できるとしている。具体的にリズムを様々なところで当てはめている
その延長で、たしか現代思想入門の方でも扱った覚えのある、人の「余っている力」と予想できる範囲でありつつ予想できない範囲、予測誤差の考えを紹介している
これらの説明が具体的な技法につながるように見えた。というより、具体的な技術がこうした感覚に裏付けされていたものだったと言ったほうがいいのだと思う
絵を描く時の構図の話や一般に言われるシナリオの組み立て方などは「センスのいい人」は自然にやってしまうのだろう。広く言われる才能がセンスという考え方につながるのはとても納得が行くものだったし、逆説的にやはり天性の才能というのは、存在しないとまでは言わずともある程度組み上げられるものなのではないかと思う
そして同時にセンスや才能といった先天的なものに後天的に追いつくものが技法だとすれば、最終的には同じものを違う形で説明しているだけなのかもしれない。つまり必要とされるものは結局一緒なのである……と、私は考えた
おそらくもっと細部まで詰めてこの本を理解できれば、この才能と技法の橋渡しとしてのセンスの形をもっと自分の中に腹落ちさせられると思う
とはいえこの本はあと3回ぐらいは読まないとやはり理解しきれるとは思えない。もしかしたらもっと必要かもしれない。たぶん必要
本の中盤では経験則を高度に計算化した生成AIに関することなどを触れている(いわゆる『文系』の人間がここまで正確に理解していたことに恥ずかしながら少し驚いた)し、本の後半ではセンスとそれを乗り越えた先にあるアンチセンスを陰陽論的な表現で言及していたり、生涯におけるこうした芸術とのふれあい方なども解説している。陰陽論は私の好きな考え方なのでぜひ自分のものにしたい
さらに言えば、この本のセンスはあまねく要素に吸着するように解説されているため、創作等にかかわらない、もっと根源的な問題、たとえば生き方に迷っているときにも参考になると思う。このあたりは現代思想入門にも通じる、本質的な哲学の役割と筆者が考えている部分を感じた
当然、この本の中では表現するものに対する助言のような要素も含まれていた
先に述べた通りアウトプットに悩んでいたというところがあるが、それに対する回答としては充分なものはあった。充分すぎるほどのものだった
だが、その部分は具体的に述べず心に留めておくことにする。なんとなくだがこれもまだきっかけとしての理解で、自分の身になる部分までは届いていない気がするのでそうする
この言葉がもう少し身になるぐらいが個人的に自分の理想の姿なのだと思っている。その形としてこの言葉はしっかりとした錨になったのではないかと今は思う