書く書く言っててなかなか書き上げられてなかったのを書きました。以下Amazonリンクはアフィリエイトです
林トモアキ先生(以下敬称略)のミスマルカ興国物語の最終巻が先日発売された。実に10年ぶり
久しぶりに発売日にラノベを買ってその日に全部読むってやった気がする。シンプルにライトノベルを発売日に読んで猛烈に飲み込んで消化する、みたいな楽しみ方はかなり久方ぶりだったと思う。それだけ楽しかった
ちなみにシリーズはWikipedia見たら第1巻は2008年刊行らしい。ただこの作品だけではなく、別タイトルで同一世界上の話もあり(後述)全体で見るともっと長い。ほんと長い(素直にすごい)
シンプルに長く続けるだけというのはそれだけに難しく、それゆえ同時に偉業でもある。まずその前提をここに共有させたもらう
で、本巻最終章は文字通りシリーズの最終巻にして同一世界のシリーズの集大成でも最後の話である。林トモアキ作品用語としては天界クロニクルとか精霊サーガと呼ばれているそのシリーズのである
その最終巻がたった一冊で終わるのだろうか?というのが読み始める前の所感だった
結論からいうと、見事に完結している
以下ネタバレを含む感想と、私が読んだ範囲でのシリーズの総括的な述懐である
おそらくこのページに到達している人は林トモアキ作品をすでに知っていると思うので(そうでないとこんな個人サイトの感想を見に来ることはないと思うので)、細かい単語や世界観の説明は省略させていただく。シリーズに関する説明も省略させていただく。ご了承を
私はこの最終章をふさわしい終わり方だったと考えている
物事は、特に作品は終わらせるのが難しい。事実あのマンガやそのアニメやら、基本的に風呂敷を広げていく段階で消費者にも盛り上がりが共有されながら終わるときには「あと数話で終わるの?」的な雰囲気となり、そしてなんか燃えきらない空気の中終わっていく作品は多い
実際のところ、ミスマルカ最終章のあとがきでは作者も風呂敷を畳みきれなかったと述べている。ただ、私はこの終わり方においてやりたいことはやりきれなかったかもしれないが、やらなければならないことはきちんとやれたのではないかと思っている(この感覚は読了時にすぐに思ったが、その後あとがきで作者の思いを読んで作者も同じ感じだったかと腑に落ちた
個人的な陰陽論の思想なのだが、書くことは書かないことと表裏一体なので、対象を絞って書いたこの作品はまさしく「正答」だったのではないかと思う
ストーリーについて少しだけ触れておくと、確かに同シリーズのマスラヲに比べれば奇跡的な展開はない(これを最終巻の正答とするなら、あれはシリーズの完答)。しかしここに至るまでのピースはきちんと積み重ねられて整備されていたので不足はない、堅実な最終巻だった
おそらく作中で10年近い時を経ているのも、実世界で作者と読者の中に10年近い時間が流れた結果である。描写されていない10年の時間に違和感がないというのも積み重ねだろう。積み重ねたというのは作中要素だけではなくリアルな時間要素も含めての範疇で言っている
もっともその途中の10年を、あるいはもっと他の軸を見たくなかったかと言われると、正直に言って見たかったというのが本音なのは隠さないでおく
しかし、客が見たいものを提示するのは同人誌の役割で、プロの作品の役割は客の望むものを出すのではなく客の思いもしないものを見せることにあるはずだ。なので私はこの最終章を全面的に肯定する
作中の細かいところに触れていくが、そもそも魔王とはなんだったのかをちゃんと考えておきたい
はたして初期から考えられていたのかそうでないのか(おそらくはシリーズを進めていく段階で固まったと思われるが)、魔王という存在について明確に描写されているのはシリーズ中でもこの最終章ぐらいである
もっと前提によると、魔王の描写は必要だったのか。もちろん必要だったから描かれたのだが、ではなぜこうなったのか
おそらくモデルはターミネーターのスカイネットであろう、ゼネフという魔王は、様々な点でよくわからない存在として描かれていた
いわく、人類を支配して機械文明で人類文明を追いやった存在だとされていた。ただその考え方などは一貫して見えないものとして書かれていた
それが本巻では、言ってはなんだが人間性を獲得したかのように描写されていた。わざわざ獲得した結果を含めてである
実に最終章の半分を魔王の誕生について書いていたと言ってもいい
読んだ側としては、わざわざなんでそんなことをしたのか考えないといけない
結論としてはこれが魔王を乗り越える方法だったからではないかと思っている
作中において、魔王という存在は本来倒すことができない存在であるということが示唆されていた
これも最初から考えていたのかそうでなかったのかはわからないが、結局機械の魔王に対して人間が対抗するには機械に人間性が必要だと考えたのではないだろうか
つまるところ人間性、人間特有の不完全性に大きな可能性を見出しているのだと思われる
一方で、その人間性をもしも機械が獲得しなかった場合の可能性の乏しさも作中では描写されている
スカイネットのごとくかつてインターネットを経由して世界のすべてを視野に収めていた魔王は、すでに人類の遺物である戦艦ユートピアの上にようやく成り立つ、それこそヒマワリの言った「小さなローカルネットワーク程度の存在」に成り下がっている
人類を滅ぼしたあと時間をかけてやり直せばいいなどと言っているが、実際のところすでに今のハードルを超えられる保証はない(もちろん超えられるまでやるのだろうが)。しかし長い時間をかけていたはずの機械化帝国も「あの程度」でしかない
確かに人類を滅ぼせるかもしれないが、滅ぼしたうえで人類を超えられる保証はどこにもなく、むしろ超えられない可能性のほうが強く描写されているように感じられる
最後にヒマワリに勝てなかったのはその手の可能性の限界だったのかもしれない(どちらかというと長い戦いをくぐり抜けたヒマワリの存在意義の証明だったのかもしれないけど)
この最終章はそんな人間性の可能性を強く意識していた作品だったと思われる
そしてその点で人間性を持ってして(そしてシリーズで積み重ねたパーツを使って)魔王と呼ばれる存在を乗り越えて、最後にハッピーエンドと相成ったのではないだろうか
すべて終わったあとのエピローグでは原点に回帰し、自由というテーマ性が強く意識されている。王侯貴族や勇者という立ち位置に縛られていた彼らがどこまでも遠くに行こうとしている姿はまさにすべての軛から逃れたという暗示であった
思えば最初から自由がないこと、その範囲で自由を得ようと四苦八苦ならぬ七転八倒を繰り広げているのが本作の特徴でもあった
liberty(法や秩序の中の自由)の方ではない、freedom(法や秩序にすら縛られない自由)の方の自由をテーマとしている作品はかなり珍しいのではないだろうか(私がわかってないだけかもしれないが
最後にシリーズを通しての感想を触れておきたい
残念ながら(そして申し訳ないことに)、私はシリーズで触れているのはマスラヲ、レイセン、ヒマワリ、ミスマルカだけなのでそれは許してほしい
このシリーズは作者もあとがきで触れていた通り、20年近く続けていたもので、開始当初はだいぶメジャーよりだった魔法とファンタジーの世界観は気づけば亜流になっていた
テンプレ的な時流の敏感さはなかったかもしれないが、その代わりのように作者の独自の視野と解釈(それこそ正しい意味の世界観)は恐ろしいほど研ぎ澄まされていたシリーズになった
それは
- マスラヲにおけるルッキズムと引きこもりの問題、電子の神という存在を神話として作品にまとめきるという偉業、そして残る紛争や傭兵のうっすらとした痕跡は仮初の平和が見えた2000年頃の空気
- ミスマルカにおける分断の世界、プロパガンダによる世論形成、宗教と政治の対立と政治問題の舞台化、力による支配はさらなる力に屈服するしかないジレンマ
- レイセンにおける問題がおきた後の問題に対する意識の遅さ、現代における信仰の形とその対象としてのマネーパワー
- ヒマワリにおける環境保護団体の過激化、長期的な視野と意識を持てない若者、身の丈に合わない力の万能感
と、とにかくそれぞれの要素は本気で世界を観察し、それが問題になるであろう未来を正確に見抜いている
林トモアキ自身はそこまで意識していないのかもしれないが、意識していないのであればそれはまさしく才能であり、視野の広さと問題を捉える視点においては現代のライトノベル作家(というよりシンプルに作家)の中でもかなりのものだったのではないかと思われる
何よりこれらの問題を自然に作中に混ぜ込み話を構築するというのは、素晴らしいものだったと私は結論づける
社会問題をそのまま書くというのはジャーナリストならともかく、作家はそれではいけないのだ、というのを強く意識させられる素晴らしい作品群でもあったとここに記す。もちろん、シンプルに娯楽作品としてとても面白いものであったことは言うまでもない